重松は天保元年三月十七日、古谷平兵エの子として所沢村上の宿に生まれる。
長じて兄と共にこんにゃく屋を営業していたが、その頃同じ所に麹屋を商う古谷源衛門という人がいて重松はそこの養子となった。というのは源衛門に平五郎という跡継ぎがいたが、親子の折り合いが悪く子の平五郎が他所へ去ったので、源衛門は重松を養子に迎えたのだと伝えられる。養家は味噌麹の製造と染料の藍玉を手広く商いしていた。
重松の妻は、みきといい天保十年三月十八日、多摩郡能貝村に生まれる。一男二女を儲けたが長女の具満以外は夭折した。みきは具満と共に家業に励んでいたが当の重松は祭囃子が好きで家を留守にする方が多かった。みきは気丈で商売もうまく、重松を当てにしないで切り回していた。重松は自分の店に居るよりも外へ出ていた方が気楽であるので、自然と行商に励むようになる。
染料の王座を占めた藍が、この武蔵野に広く栽培されていたので、藍を集荷する業者が多かった。古谷家も藍屋で、耕作者から藍の葉を買い「藍玉」に加工し、それを藍師に売る商いをしていた。
重松は藍の葉の集荷に近郷近在を歩いた。西多摩郡の五日市まであしを伸ばした時、同じ染料仲間の「紫染」に、なくてはならない触媒の「榊の灰」が、ここで作られていることを知った。
そもそも紫染の方法は、紫の根を温湯につけてよくもみ砕き、黄紅色の液汁をしぼりとる。一方、榊の枝木を燃やしてとった灰を水にひたして、灰汁を作る。そして絹の布を紫汁と灰汁に交互にひたして染めてゆく。このとき紫汁が濃いと紫紅色になり、灰汁が濃いと紫青色になるので、両方を加減して好みの色に染めた。
重松はこの榊の灰に目をつけて、五日市方面で仕入れをして、荷を所沢へ送った。
行商の好きな重松にとってはこの上ないこと、毎日精を出して働いた。
重松はいつも平井川の河原で一服し、笛を取り出して吹いていた。笛の音は春風にのってりゅうりゅうとして村里へ流れていった。いつしかこの重松の笛の音に惚れ込んで村の若者達が教えを乞うようになる。大国魂神社の流れを汲む笛の名人、足で太鼓をたたき、笛を吹くという神業の人間が来るというので、いつも超満員であった。
現在、西多摩郡日の出町平井地区、幸神地区、五日市町伊奈新宿地区に伝承される重松流囃子は、こうして重松が行商の傍ら平井川畔で指導した直伝のものである。重松はこうして西多摩地区では、良き商人でありまた尊敬される囃子の師匠であった。重松は仕事を終えて家に帰れば帳面を付けるだけで、後は自由時間なので自ずと笛を持って、よそに出掛けるようになった。
夜の出稽古はもっぱら村中で、時には安松や秋津(東村山市秋津町)方面へ出張した。各所で熱心な若者達が師匠の来るのを待っていた。重松の教えを受けて上達した者が多く、その子孫が伝統を受け継いで今日に至っている。
重松流祭囃子の特徴は、決まった譜を持たず、すべて口伝で、「地囃子」として基本の太鼓はあるが、その時の雰囲気で、たたいているうちに、相手のたたき方を見抜いて、自分で工夫し、即興的に自由に変奏していくことで、これを「チラシ」と言い、ジャズ的手法が受けている。
曲目は、宮昇殿、四方殿、鎌倉、師調目、にんば、三番叟、ねんねこ、地囃子(しずみ、中の切り)で、威勢のよい賑やかな囃子である。重松は、長年にわたり多くの弟子を養成したが、惜しくも明治二十四年二月三日、六十一歳で世を去った。
その墓は所沢市御幸町の墓寮にあり、法名は「重法光泉信士」という。
無形民俗文化財 重松流祭囃子沿革史より